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#18 なぜ、起業したのか?幼少期から海外生活、学生起業、ピボットから現在の「HUPRO」事業に至るまでを振り返る - ヒュープロ 山本玲奈氏

#18 なぜ、起業したのか?幼少期から海外生活、学生起業、ピボットから現在の「HUPRO」事業に至るまでを振り返る  - ヒュープロ 山本玲奈氏の画像
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「スタートアップ オフレコ対談」は、XTech Venturesの代表手嶋とゲストの方をお呼びして対談する番組です。今回は2015年に設立し、士業や管理部門に特化したキャリア支援プラットフォーム「HUPRO」を展開する株式会社ヒュープロ代表取締役の山本玲奈氏をお迎えします。

学生起業家が起業直後どのように売上を立てていたのか、またピボットし壁にぶつかりながらも急成長を見せる現在の事業をどう立ち上げていったのか。幼少期から海外で生活をされトリリンガルに至るまでや小説家や外交官を目指されていた起業前のお話など、山本さんがヒュープロを立ち上げる前までのお話を伺っています。

スピーカー

・山本玲奈氏(@shirahureyy)
株式会社ヒュープロ代表取締役

・手嶋 浩己(@tessy11)
XTech Ventures代表パートナー

※記事の内容は2022年2月時点のものです。

目次

・トリリンガル起業家・山本玲奈氏のルーツ
・インドネシアとアメリカでの学校生活
・ボランティアと小説に熱中した日々
・日本への帰国、そして起業へ
・外交官を目指して司法試験の道へ
・起業家との出会いと葛藤
・起業の決意とヒュープロの登記まで
・事業のピボットと「最速転職HUPRO」の誕生
・たった一人だけ登録してくれた「最初の成功体験」

トリリンガル起業家・山本玲奈氏のルーツ

手嶋:XTech Venturesの「スタートアップオフレコ対談」です。今日は珍しく投資先の社長をお呼びして、オフレコの話を進めていきたいと思います。しっかり収録しますが、内容はオフレコです。ヒュープロの山本社長、よろしくお願いします。

山本:よろしくお願いします。

手嶋:我々は2018年の秋頃に山本さんとご一緒させていただき、もう3年ほどの付き合いになります。おそらく、リスナーの中には社名をなんとなく聞いたことがある、という方もいらっしゃると思いますので、まずはヒュープロと山本さんご自身の自己紹介を簡単にお願いできますか?

山本:ありがとうございます。2018年頃からクロステックさんとご一緒させていただいております、株式会社ヒュープロの山本玲奈です。弊社では「最速転職HUPRO」というサービスを提供しており、士業や管理部門の方々に特化した転職体験を届けています。具体的には、「最速転職HUPRO」という求人メディアと、「HUPRO MAGAZINE」というオウンドメディアの2つを運営しております。本日は改めてよろしくお願いします。

手嶋:よろしくお願いします。女性に年齢を直接お聞きするのも失礼なのでお伺いしませんが、若手の女性社長が手がけるには、かなり専門的な領域の事業を展開されている、という印象を外部の方は持つと思います。どのような経緯でその事業に至ったのか、ぜひお伺いしたいです。まずは起業前のお話から。創業は2015年でしたよね?

山本:はい、2015年の11月です。

手嶋:もう6、7年目ということで、歴史のある会社ですね。2014年までの山本さんがどのような方だったのか、何をしてこられたのかをお聞きしたいです。Twitterでは「トリリンガル玲奈」というお名前ですが、なぜトリリンガルなのでしょうか?

山本:物心ついた頃からずっとトリリンガルでした。

手嶋:昔から「トリリンガル玲奈」だったわけですね。

山本:そうですね。

手嶋:お名前にするくらいですから、トリリンガルが山本さんの一番の「推しポイント」なのだと思います。3か国語を話せるというのは素晴らしいことなので、子供時代のお話も伺えますか?

山本:はい。私は2歳から海外に住んでおり、大学1年生で日本に戻ってきました。なので、ようやく日本での生活が人生の半分くらいになったところです。海外生活の方が長く、小学校2年生頃まではマレーシアやシンガポールなど、東南アジアの国々を転々としていました。その後インドネシアへ渡り、間に2、3年別の国で過ごした後、小学校高学年から中学3年まで再びインドネシアで暮らしました。そのため、トリリンガルのうち1つはインドネシア語です。

中学1年生から3年生までは、世界で2、3番目に大きい日本人学校であるジャカルタ日本人学校に通い、そこで日本語を習得しました。高校はアメリカの慶應義塾ニューヨーク学院に進学し、大学から慶應義塾大学に入学するため、一人で日本に帰国しました。トリリンガルになったのは、こうした背景からです。

手嶋:興味深いお話なので、詳しく伺っていきたいのですが、事実として、日本語と英語とインドネシア語は同じくらい話せる感覚ですか?それとも差はありますか?

山本:以前は同じくらいだと思っていましたが、最近はインドネシア語を忘れつつあり、英語よりも日本語の方が心地よく感じるようになりました。

手嶋:では、日本語が一番得意なのですね。ご両親は、海外転勤が多いお仕事だったのですか?

山本:はい。2、3年に一度は転勤するような両親でした。

手嶋:ご家庭では日本語で話されていたのですか?

山本:はい、日本語でした。

手嶋:では、日本語は幼い頃から。

山本:幼い頃から日本語でしたね。兄がいるのですが、彼は中学生になるまで日本語がかなり苦手でした。その反省からか、私は家では常に日本語で話すようにしていたようです。

インドネシアとアメリカでの学校生活

手嶋:小学校ではインドネシア語で話していたのですか?

山本:そうですね。最初は現地校に通っていたのでインドネシア語、その後インターナショナルスクールに転校して英語、そして中学校は日本人学校だったので日本語、という形です。

手嶋:インドネシア語はどのように覚えたのでしょうか。気づいたら話せるようになっていた、という感じですか。

山本:親の「必ず現地校に通わせる」という方針で、インドネシアに着いてから1年ほど現地の学校に通いました。ただ、地べたでご飯を食べる文化や、スリが少し多かったことなどが親として気になったようで、早いうちに転校しました。インドネシア語は世界で最も簡単な言語の一つと言われており、習得自体に苦労はなかったようです。学校に通い始めたら、帰ってくる頃にはもう話せるようになっていた、と聞いています。

手嶋:なるほど。インターナショナルスクールでは英語を習得され、高校はなぜ慶應ニューヨーク学院へ?これはご自身の意思ですか?

山本:はい。きっかけは父の仕事でアメリカへ行くことになったのですが、結局父は1年でインドネシアに戻ったので、私自身は寮に入って一人で暮らしていました。父の仕事と、自分の意思の両方が重なって入学を決めました。

手嶋:慶應ニューヨーク学院には、どのような生徒さんがいらっしゃるのですか?

山本:だいたい半々ですね。半分は私のようにずっと海外で暮らしている日本人、残りの半分は日本の慶應に入りたい方が受験して来られます。なので、有名人のお子さんも多い学校でした。

手嶋:慶應に入りたいのに、なぜわざわざニューヨークへ行くのでしょう?

山本:今は試験制度も変わったようですが、当時は日本の慶應系列の高校に入るよりは難しくなかったからです。

手嶋:なるほど、競争率が低いということですね。

山本:はい。それに、ニューヨーク校に受かるための有名な塾が日本に2つあって、皆さんそこへ通い、中学1年生から英語を徹底的に勉強するんです。

ボランティアと小説に熱中した日々

手嶋:ニューヨークでの高校時代、何か熱中していたものはありますか?

山本:ずっと部活をやっていました。それと、生徒会の一環でボランティア活動に力を入れていました。ちょうど東日本大震災があった時期で、被災地への寄付活動にかなりの時間と熱量を注いでいました。

手嶋:アメリカの高校生は内申点のためにボランティアをしますが、それは内申点のためというよりは、ご自身の正義感やアントレプレナーシップからくる行動だったのでしょうか?

山本:内申点は非常に重要だったので、様々なボランティアに参加し、課外活動の単位は上限まで取得していました。ただ、それ以上に、海外にいるからこそ「日本の力になりたい」という思いが強くありました。何ができるか模索し、Tシャツを作って現地で販売したり、コーラス部隊を組んで街を回り寄付を募ったり、保護者の皆様にお願いしたりと、本当に色々な活動を長時間続けていましたね。

手嶋:ご自身で「これをやるべきだ」と思い描き、行動するうちに形になっていったのだと思いますが、そうした経験はその時が初めてでしたか?それとも、幼い頃からそういうお子さんだったのでしょうか?

山本:小学生の頃は、兄がいたこともあって廊下で喧嘩するのが好きな、ただのやんちゃな子供でした。積極的になったのは中学生くらいからで、思い立ったら即行動、という直感的なタイプでした。その頃から急に想像力が豊かになり、一つの表れとして、美術の授業で絵を描くのが大好きになりました。特別上手というわけではありませんが、賞をいただくほどになり、何かを発想し、表現し、アウトプットすることに大きな喜びを感じるようになったんです。もっと表現したい、頭の中の想像が止まらない、という思いから小説を書き始めました。

すると、文章を書くのが止まらなくなってしまって。歩いていると次から次へと言葉が頭に浮かんでくるので、とにかく原稿用紙やパソコンに向かって書き続け、年間で40冊ほど執筆していました。

手嶋:執筆ですか。

山本:はい。特に何も考えずに書いていたのですが、「これはコンテストに出すべきでは?」と思い、入賞するための戦略などは一切考えず、片っ端から応募していました。書いては出し、書いては出し、というのを繰り返したのが中学校生活でした。

手嶋:何か賞は取れたのですか?

山本:ありがたいことに2作品で賞をいただき、2冊出版もしました。

手嶋:すごいですね。高校では書かなくなったのですか?

山本:そうなんです。高校も、実はその小説で推薦入学しました。まさに英語の入試で合格したのですが、もちろん他の学校も併願していました。ニューヨーク校のAO入試のために書き続け、その後の一般入試に専念するため、「これで最後にする」と決めていたコンテストがあったんです。その作品には、ものすごい力を注ぎました。

最年少で金賞を取る、と意気込んでいたのですが、そのコンテストで予選を通過できなかったんです。しかも金賞を取ったのは、自分と同い年の子でした。中学生で小説を書いているのは自分くらいだろう、と高を括っていたのに、予選すら通らず、優勝者が同年代だったことに、ものすごくショックを受けました。その日は食事が喉を通らないほど落ち込み、眠りにつきました。翌朝、目が覚めたら、全く文章が書けなくなっていたことだけを覚えています。物語が頭に浮かばなくなり、それ以来、小説は書いていません。

日本への帰国、そして起業へ

手嶋:ドラマチックですね。私のような平凡な中高生とは違う生活を送っていた山本さんが、大学で突然日本に。2011年頃ですか?

山本:はい、2011年です。

手嶋:2011年に、事実上の初上陸という形で慶應大学の法学部に入学されたわけですね。

山本:はい、法学部です。

手嶋:内申点もコツコツ貯めて、無事に入学されたと。大学は日本に来たかったのですか?

山本:そうですね。大震災のボランティア活動もそうですが、中学1、2年生の頃から明確に「日本が好き」という気持ちがありました。でも、日本に帰ると周りの大人は日本の悪口ばかり言う。だから、大人になったら日本の正義を貫く仕事に就きたい、とずっと思っていました。日本のためになること、日本の味方でいること、日本が世界一の国だとアピールできる何かを成し遂げたい、という気持ちがあったので、大学は絶対に日本に帰り、日本で働くと決めていました。

手嶋:元ソニー社長の平井さんの本は読まれましたか?ソニー再生のプロセスを描いた本ですが、面白いと思いますよ。平井さんもほぼ同じ経緯で、子供の頃はずっと海外にいても、大学からは日本でやると決めていたそうです。自身のアイデンティティが分からないまま育ったけれど、働くのはずっと日本だと決めていた、という内容で、山本さんも共感できるのではないでしょうか。

山本:ありがとうございます。

手嶋:慶應の法学部に入られて、私の理解では、司法試験の勉強をされていた時期もありつつ、インターンでビジネスコンテストに参加したり、新規事業の立ち上げを経験されたりしたのが、起業前にあったと思います。現在の会社を登記されたのは大学4年生の時ですか?登記までの大まかな流れを教えていただけますか?

外交官を目指して司法試験の道へ

山本:中学1年生から抱いていた人生のビジョンを職業に置き換えると、私にとっては「外交官」でした。日本の人たちが自国に自信を持てないのなら、私が世界中で「日本のこんなところが素晴らしい」と言いふらして回ればいいのでは、と考えていました。当時は外交官の仕事をよく理解していませんでしたが、漠然と外交官を目指していました。

大学に入り、外交官になって日本を世界一だとアピールするためには、まず力をつけなければならない、社会人1年目のスタートラインは皆同じではない、と考えました。そこで、大きな一歩を踏み出すためにインターンで力をつけようと決めたんです。

そして、どうすれば外交官になれるかを考えました。私立大学から外交官になれる枠は非常に少なく、国家総合職(外務省)試験で優秀な方々と競って勝てるとは思えませんでした。そこで、司法試験合格者向けの外交官採用枠があることを知りました。弁護士を目指す人の中で外交官を志望する人は少ないため、倍率が低いと聞いたんです。

手嶋:なるほど。慶應ニューヨーク学院に入学された時と同じような、勝てるルートを探すという思考ですね。

山本:真正面から戦っても勝てない、と思っていました。司法試験も難関ですが、枠が多い分、勝機があるのではないかと。それに、万が一弁護士になっても、国際弁護士として日本の正義を貫けると考えて、司法試験の勉強を始めました。

ただ、司法試験の予備校費用を母親に出してもらうと、途中で挫折してしまいそうだなと。そこで、自分で費用を稼げば無駄にできないだろうと考え、一番短期間で稼げる方法として、自分の発想力と行動力を活かせそうなビジネスコンテストに出ることにしました。

手嶋:賞金が大きいビジネスコンテストですね。

山本:リクルートやエン・ジャパンの新規事業創出インターンなど、期間が短いものですね。

手嶋:数日間で10万円もらえる、といったものですね。

山本:私が参加していたのは、うまくいけば数十万から100万円ほどの賞金がもらえるものだったので、そうしたコンテストに挑戦しました。

手嶋:そして、お金は稼げたのですか?

山本:無事に、いくつかのコンテストで優勝し、賞金を獲得しました。

手嶋:ご家庭を想像するに、予備校代くらいは出してもらえそうですよね。なぜ、そこまでして自分で稼ごうと?

山本:何としても外交官になりたい、ならなければいけない、とさえ思っていました。ですが、机に長時間座って勉強するのは好きでも得意でもありませんでした。国家総合職にせよ司法試験にせよ、膨大な勉強量が必要なので、絶対に続かない、怠けてしまう、逃げ出してしまう、と。それがとても怖かったのです。

手嶋:その時、「辞めたくなったら辞めればいい」とは思わなかったのですか?

山本:長く信じ続けたものを失うと、他の選択肢が全く思い浮かばなかったのです。外交官になることだけを信じてきた自分が、それを辞めたら何をするのか。それが本当に恐怖でした。

起業家との出会いと葛藤

手嶋:それでビジコンで稼いだお金で予備校に通われたと。それが起業とどう関係してくるのですか?

山本:ビジコンは非常に面白く、企画書を書いてプレゼンするのは得意だったので、手応えも感じていました。そして、今はもうなくなってしまいましたが、「TRIGGER」という学生起業家コンテストで、初めて「起業家」という存在に触れました。

手嶋:2012年、13年頃ですね。

山本:まさに。そのコンテストには、クルーズの小渕さんやSHOWROOMの前田さん、クラウドワークスの吉田さんなどが出場されていました。受賞をきっかけに、そうした方々と直接お話しする機会を得て、コロプラの千葉功太郎さんからも声をかけていただきました。

初めて起業家の方々と触れ、その熱量とエネルギッシュさに圧倒され、心をかき立てられました。そして何より、ビジコンの活動そのものが大好きでした。

企画を考え、誰かにヒアリングしに行ったり、TwitterやFacebookで仲間を集めるためにスカウトしたり。全く知らない人に、イベントで会ったかのように装って「お茶しませんか」と声をかけ、一緒にやらないかと口説く。その結果がイエスかノーか、というヒリヒリする感覚がたまらなく楽しかったのです。

起業の真似事のようなことだったと思いますが、感情的に「楽しい」という気持ちが大きく、正直なところ、勉強よりもそちらに熱中していきました。

一方で、司法試験の勉強をしている人たちは、朝から晩まで自習室にこもっています。その温度差に、自分はどんどんついていけなくなっていきました。

それでも、外交官になりたいという気持ちは強い。ビジコンは楽しいけれど、自分で稼いだお金で通う予備校の勉強には身が入らない。どうすればいいのかと、1年ほど悶々とした時期を過ごしました。

起業の決意とヒュープロの登記まで

山本:勉強も頑張ってはいましたが、実質的にはビジコンや、そこで声をかけていただいた会社でのインターンが中心の生活でした。その会社から「子会社を作らないか」というお話をいただき、インターンをしながら受験勉強を続ける生活が1年ほど続きました。

そして、ロースクールの受験を1ヶ月後に控えたある日、ゼミの教授に「君の(司法試験への)足の突っ込み方は、本気には見えない」というようなことを言われました。

二足のわらじというか、起業のようなこととロースクール進学は両立しない、と。かといって、就職活動は違うな、という思いもありました。

その時、自分のやりたいことは、やはり「日本を世界一の国だと証明したい、そのための何かを成し遂げたい」ということだと再認識しました。

冷静に考えた時、それを実現する手段は外交官だけではない、と気づいたのです。事業を作り、会社を大きくすればいいのではないか。日本で生まれた会社が世界に羽ばたければ、それこそが「日本は世界一だ」という証明になるのではないか、と考えたんです。

その時に、起業しよう、とぼんやり思いました。ロースクールの受験を辞退し、子会社を作ることに専念し始めました。

手嶋:ある会社の子会社を、半年ほど経験されたのですね。

山本:半年というか、8、9ヶ月くらいですね。1年弱です。

手嶋:そこから、ヒュープロを登記するまではどのような流れだったのですか?

山本:その会社で子会社を作り、そのまま就職することも考えました。しかし、子会社設立のための取締役会の前日になって、お世話になっていた役員の方に「やはり、やめます」と伝えました。それが2015年の11月で、もう自分でヒュープロをやるしかない、という状況でした。

手嶋:色々な方に相談して、自分でゼロから登記してやろう、と決断されたのですか?

山本:はい。当時は何も知りませんでしたが、子会社では自分の発言権や経験が限られると先輩に聞いたり、上場企業の子会社では、自分の「世界一の国にしたい」という思いより経営が優先される、という現実を知ったりしました。このままでは、司法試験を諦めた意味がない。そう思い、「すいません、やめます」と伝えました。

手嶋:なるほど。ただ、山本さんもいずれグループ展開を考えるフェーズが来るでしょうから、その時、自分の経験をどう活かすか、というテーマがブーメランのように返ってきますね。立場が変わった時、どうするか。そして、そのままヒュープロが登記されたと。

山本:はい。実は、その会社で先に出資していただく形でヒュープロという箱(会社)は登記済みでした。

手嶋:それを「自分でやらせてください」と。

山本:そうです。

手嶋:円満に、という感じですか?

山本:社長は怒っていたと思いますが、他の方々は「しょうがないね、頑張って」と送り出してくれました。

手嶋:その時には、もう事業内容は決まっていたのですか?

山本:いえ、決まっていませんでした。就職もできず、ロースクールにも行けない、大学4年生の秋でした。

手嶋:尊敬されているサイバーエージェントの藤田さんも最初は事業を決めていなかったから、というわけではなく?

山本:ではないですね。ヒュープロという箱しかなかったので、そこから何をやるか考えよう、という状況でした。

手嶋:登記してから、まず何をされたのですか?

山本:とりあえず3日間くらいはひたすら焦りました。

手嶋:自分で決めたこととはいえ、そうなりますよね。

山本:はい。親はいまだに反対していて、周りの友達は良い企業への就職が決まっている。さあ、私はどうしよう、と。でも、焦っても仕方ないので、行動しようと。自分にある資産は外国語が話せることだけだと思い、ビジコンつながりで知り合った経営者の方に「起業するんです」と話したところ、「じゃあ翻訳を手伝ってよ」と初めてお仕事をいただきました。東京モーターショーで通訳をしたり、翻訳の仕事をしたりして、ヒュープロとして初めての売上を立てました。

ただ、先は全く見えず、月10万円ほどの売上を立てるのが精一杯。卒業が迫る中、どうしようかと。慶應の法学部には「在学延長」という素晴らしい制度があり、大学院進学を申請しつつ、保険として在学延長手続きをして、学生の身分を続けていました。何をやるか分からないまま、ひたすら翻訳事業を続けていました。

手嶋:翻訳事業というより、翻訳業務の受託、という感じですね。

山本:そうですね。

手嶋:その時点で、創業期の出資は受けていたのですか?

山本:いえ、まだです。

手嶋:いなかったのですね。

山本:ただ、慶應の先輩で、すでに起業されていた方から「お金に困っているなら出資するよ」と言っていただいていました。しばらく翻訳業務をこなしながらその方に相談し、一度ビジョンは置いておいて、まずは食べていくためにどう売上を上げるかを考えました。翻訳業務を通じて、人とコミュニケーションを取る営業ならできるかもしれないと思い、また知人に「仕事ください」とお願いしたところ、広告代理業をやらないか、と。

イベントの看板広告やサンプリングのスポンサー企業を見つけたら、マージンを渡す、という話でした。そこからテレアポで「こんなイベントがあるのですが、広告を出しませんか」と営業を始めたのが、少しずつ売上が上がったきっかけです。

事業のピボットと「最速転職HUPRO」の誕生

手嶋:それで、そもそも売上は上がるのですか?

山本:それが、本当に運が良くて。「東京湾納涼船」という、夏に2ヶ月だけ運航する、15万人の若者が集まる巨大なイベントがありました。そこはスポンサーを一切つけていなかったので、知人から「誰かスポンサーを連れてきていいよ」と言ってもらえたのです。20代、30代が15万人も乗る船、ということで、テレアポをする中で電通本体の担当者につながり、「うちのクライアントを乗せたい」という話になりました。その下請けをやったことで、売上が一気に上がりました。

手嶋:広告代理店ですらないのに、代理店とメディアの間で営業代行をされたと。

山本:はい、営業代行ですね。

手嶋:良い媒体を預けてもらえたのですね。

山本:そうです。

手嶋:その期間、一時的に売上が上がったわけですが、そこからどうやって「最速転職HUPRO」につながるのですか?

山本:在学延長期間も終わり、コロプラの方から「ちゃんと事業をやろうよ」と声をかけていただきました。

手嶋:当時は「ちゃんと事業しよう」という言葉だったのですね。

山本:業務の請負ではなく、事業をやろう、と。

手嶋:なるほど。

山本:私自身も、うちわやサンプリングを配り、アルバイトを手配する中で、「私は一体何をやっているんだろう」と感じていました。先行きも見えず、こんなことのために起業したんじゃない、日本を世界一にするという目標との乖離が大きすぎて、かなりのストレスでした。

そこでじっくり考え、メンターのような方に「ビジネスアイデアがあるなら持ってきなよ」と言っていただき、2つの企画書を持って行きました。一つは日本のまつげエクステ技術を海外にオンラインで販売するもの、もう一つは日本の学生団体を企業が買収するという、少し変わった事業でした。他の方からは「事業は1本に絞るべきだ」と言われましたが、「いえ、どっちもやりたいです」と譲らなかったら、千葉功太郎さんが「君は天才だからどっちもやったほうがいい。僕が出資してあげる」と言ってくださって。

「唯一、私の才能を信じてくれた!」と燃えてしまい、少し調子に乗って「ぜひお願いします!」という流れで、コロプラから出資を受けることになりました。

手嶋:当時は学生向けファンドのような形でしたね。

山本:はい、1号ファンドでしたね。

手嶋:それで、両方やってみたのですね。

山本:やりました。インドネシアに2ヶ月ほど滞在し、まつげエクステを教えたりもしました。事前に日本で準備し、小さなスクールに通って自分で動画を撮って現地で実践したのですが、当然ながら全くダメでした。

手嶋:ニーズがなかった。

山本:全くありませんでした。日本の「カワイイ」という文化をインドネシア語でどう伝えるのかも分かりませんでしたし、教えても全然上達しない。日本に戻り、今度は学生団体を企業に買ってもらう、という事業を進めました。

手嶋:それは事業として成り立つものなのですか?今でいうM&A仲介のような。

山本:要するに、学生団体ごと新卒で採用してください、というモデルです。

手嶋:なるほど。

山本:まつげエクステの実験はうまくいかず、両立は無理だと気づきました。まつげエクステ事業からは一旦撤退し、日本に戻って学生紹介のヒアリングを進めていきました。

少し余裕ができたので、改めて自分のビジョンを思い返し、やりたいことに立ち返りました。やはり「日本を世界一にしたい」という思いは変わらない。そのためにはキャッシュも事業も必要だ、と冷静になりました。

じゃあ、今の自分に何ができるかと考えた時、司法試験の勉強をしていたこと、ロースクールに通う友人がいること、弁護士の知人が数人いること、という資産に気づきました。そこで何か事業を起こそうと考え、自分が受験勉強をしていた時に、弁護士事務所のアルバイト先を探すのに苦労したこと、ネットに情報がなかったことを思い出し、学生が弁護士事務所でアルバイトできるサイト「HUPRO ASSISTANT」を始めました。

手嶋:近づいてきましたね。インドネシアの小学校で地べたで給食を食べていた話から始まったので、だいぶ現在に近づいた感じがします。それが2016年頃ですね。

山本:はい、2016年頃です。

手嶋:そこから「最速転職HUPRO」までは早かったですか?

山本:早いといっても、1年半ほどはかかりました。

たった一人だけ登録してくれた「最初の成功体験」

山本:ウェブサイトを作っても、売上は全く上がりませんでした。手元にあったわずかな資本金と、以前稼いだキャッシュで社員を数人採用し、WordPressでメディアを立ち上げ、コロプラに教わった通りに花のような事業計画を作りました。お金をかければ集客できると思っていましたが、ユーザーは全く集まりません。

それでも、月に1、2件のマッチングが生まれ、売上は30万円ほど。そのうち、最初に入社してくれた社員も全員辞めてしまいました。売上が上がらず、どうすればいいか分からず、社員がゼロになったらどうしよう、と不安でした。

でも、これはうまくいくはずだ、今はひたすらお客様の元に通うしかない、と信じて弁護士事務所を回り続け、「学生を採用しませんか?」と言い続けました。すると、「会計事務所の方がニーズがあるのでは?」と言われ、今度は会計事務所を回り、「学生を採用しませんか?」と営業を続けました。そうするうちに、「学生もいいけど、とにかく社員が欲しいんだ」という声を非常に多く聞くようになったのです。

今、求められているのは学生じゃないかもしれない、と思い、初めて中途採用向けのLP(ランディングページ)を作ってみました。それが「最速転職」の始まりでした。

手嶋:それはいつ頃ですか?2017年の初頭くらい?

山本:それくらいだと思います。2017年のどこか、という感じです。そのLPからもユーザーはなかなか集まらなかったのですが、たった一人だけ登録してくださった方がいました。埼玉県在住、43歳のシングルマザーの女性で、埼玉県の会計事務所に勤めている方でした。「弊社は小さいですが、親身な対応が強みです。一度お会いしましょう」と連絡しても返事がなかったので、ダメ元で手元にあった求人を3件送ると、返信が来ました。そして、初めて中途採用の面接に進み、1週間後には内定が出て、その会社への転職が決まったのです。

後日、電話で内定をとても喜んでいらっしゃったので理由を尋ねると、今の会計事務所は所長が高齢で事業承継の予定がなく、閉鎖が決まっていたこと、女手一つで子育てをするために、緊急で転職先を探さなければならなかったことを教えてくれました。大手のエージェントには相手にされず、会うことさえできなかった、と。「ヒュープロさん、ありがとうございます」と感謝され、転職先の事務所からも非常に感謝されました。

その時、私たちが提供できる価値は、寄り添うことや求人量の多さではない、と気づきました。候補者の方々のほうが、ご自身のキャリアや市場価値について詳しいため、私からのアドバイスに価値はありませんでした。

しかし、忙しい中で「今この情報が欲しい」という要望に、メールなどですぐに応えること、つまり「速度」には大変喜んでいただけたのです。多くの情報を提供するのではなく、必要な情報を迅速に届けることに価値を感じてもらえるし、それなら自分たちにもできる、と思いました。

すぐに企画書を書き直し、当時担当してくれていたコロプラのアソシエイトの方に「これをやろうと思います。名前は『最速転職』です」とExcelで作った企画書を見せました。「LPをやってみる?」と言われ、「早く転職できる」「会計事務所に特化」といった打ち出しに変えたところ、表示回数が伸びました。そして、その翌月にもう一人マッチングが生まれた時、「これはいける」と確信し、「最速転職」を伸ばしていくことを決意しました。

手嶋:そこから今の原型ができていったわけですね。色々ありながらも、じわじわと伸びて今に至ると。「最速転職HUPRO」は、今は「HUPRO」と呼ぶ方が良いですか?

山本:はい、今は「HUPRO」で大丈夫です。

手嶋:なるほど。では、HUPROがどのように伸びてきたかについては、少し前半が長くなりましたので、後半で詳しく掘り下げていきたいと思います。前半は、学生起業家ならではの二転三転ありながらも、山本さんのすごみが伝わるエピソードでした。山本さん、ありがとうございました。

山本:ありがとうございました。


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